第七回: 崇彦寺住職 林崇彦さん

 

『店主に聞く!』第七回目は、特別編『住職に聞く!」です。
電気屋の店主からお坊さんに転身された異色の経歴をお持ちの
崇彦寺のご住職、林崇彦さんに
沢山お話を伺いました。今回は〈前編〉をお送りします。


 

『電気屋さんに』

本日はよろしくお願いします。
ご住職は電気屋さんからお坊さんになられたという事ですが、
その辺りの事からお伺いしても宜しいでしょうか?


 

うちは11人兄弟で一番末っ子だったのですが、親父とお袋はね、最後の一人だから流すつもりだった
らしいんですよ。
でも、一人くらい食べさせていけるだろう、という事で生かしてもらったわけですけどね。
当時は貧乏百姓でね。苦労してたわけなんです。
その中で育って来たもんですから、たしかね、小学校の二年生くらいの時に亀山の方からお寺さんが私を
貰いに来て下さったんです。「お寺の子供にくれ」って。

 


 

養子の話があったんですか?


 


 

そう、養子の話があったの。
で、お迎えに来て下さったんだけど、親はね「最後だから何とか食べて行けるだろう」と断った。
という事で養子に行かずにそのまま小学校を出て。

で、愛知時計のほうでね、使ってやるって事で入れて頂いて、そこで働いたんですけれどもね。
そうこうしてる間に、白鳥橋の所でね、広告を見たんですね。
電柱の広告に『陸軍少年通信兵』というのと『陸軍少年兵器学校』というのが書いてありましてね。
志願して兵隊になろうと。
幸い両方とおったんですが、少年通信兵のほうが良いような気がして陸軍少年通信兵学校に入って
そこで2年間。入って4ヶ月くらいしたら大空襲があってね。
愛知時計は全滅しちゃったんですよ。そういう事で、丁度難を逃れたっていうんですかね。
で、終戦後に地元に帰って来てから、やっぱり行く先が無いもんですから。
当時は本当に仕事が無かったんですよ。

栄に高木電気店っていうのがあって、そこの人が「あんた、通信兵やってたんだったら来んかい?」
って事で行って。
それから今度はカトームセンへ行きまして、そこでずっと商売しながら家電の事を勉強して、守山で
一軒家が見つかりましてね。その売り家が48万だったんですね、15坪で。
家内と相談したら18万位は貯金があったので、あと30万足らんという事で田舎へ行きまして。
親父と、家内の親父と、姉と兄にお金を貸してもらいましてね。それで家を買って。
ま、それは2年間で返しましたけれども。
という事でそれから電気店を始めましてね。

 



 

まずは守山でご自宅を買われてご商売を始められたんですね。その頃は30代・・・



 

そうですね。32歳から始めたんですかね。
都合良くね、次から次へと新製品がでるような感じで、一つのブームと言うんですかね。
それに乗せて頂いたという事です。

で、守山の次に勝川と、それから猪子石、尾張旭、茅ヶ崎、と全部で5店舗。

 

当時の48万円というと、相当な金額ですよね。


 

そうですね、はい。


 

それを2年で返されて、その後全部で5店舗やられていたというのは・・・下世話な言い方になりますが
相当儲かっていたんですね(笑)

 

いや、まあ、そんなに儲かるほどでも無いんですけどね(苦笑)


 

  (一同 笑)
丁度、家電製品の普及段階にあったもんですから、洗濯機から電子レンジ、ビデオね、ずっと調子良く、
まあ一番良い時期に商売をさせて頂いたんです。

 

『信仰心』

最初に勝川にみえた時から大弘法の像はあったんでしょうか?

 

はい、あります。(大弘法像が建ったのは)昭和3年ですからね。
でも、その時にはねお大師さんだとは知らなかったんです。
「なんだか大きな仏さんがみえるな」ってなもんでね。

 

 

(一同 笑)

 

その頃は無信心だったんですよ。
だけどまあ、やっぱりお参りしたほうがいいわ、という事で朝晩お参りしたり、 家内がご飯のお供えを持って
行ったりしておったんですよ。

そんなような事でね、家内にも「お大師さんや仏さん神さんをお参りするよりも俺を参ってた方が
ご利益があるよ」なんて言ってたくらい無信心だったんですけど。
でも、それから段々分かるようになってきまして、休みの日には高野山まで行ったり、色々してる間に
この、何て言うのか、信仰心というのがね。

 

ご住職が僕達と同じ“商店主”だというのはすごく身近に感じるんですが、そこから高野山に行くという
その気持ちというか想いというのがすこし不思議に思ったりします。

 

それはね、一つは何とか商売繁盛させてもらいたい、という気持ちもあったりね。
まあ、休みの日だし。お大師さんが近くにあるんだから高野山にも行ってみたい、と。
そして四国巡拝というのもあると言うんで、四国にも行ってみたいという思いもありましてね。

高知に行って、次は松山に行って、と段々とそうやって行くようになりましてね。
それから自然とですね、お大師さんに助けて頂いて、というかね、何かを引っ張って頂いたと
いう事なんでしょうね。

 

勝川のお店の裏に大弘法さまが建っていても
どのくらいの間、興味が無かったんでしょうか?

 

1〜2年くらいですね。
すぐ横に駐車場を借りてましたんでね。行く度に前を通りますのでね。
ちょっと頭を下げたりしていたんですけど。

 

その当時から地域の皆さんは熱心にお参りされていたんでしょうか?

いえ、ほとんどお参りしてなかったんじゃないでしょうか(苦笑)


 

今みたいな賑わいは無かったんですね。


 

そう、それこそね、蜘蛛の巣がはってるような状態で。
ほとんどお参りも無くて、建ったのが昭和3年ですからね。
錫杖(しゃくじょう)ってあるでしょ、手に持ってる杖。あれも錆びちゃってね。
お顔もヒビが入ってたしね。本当にひどい状態でした。

 

そもそもこの土地に弘法様の大きい像が建ったいきさつというのは?


 

昔からこの辺では大師信仰というのは強かったんじゃないでしょうか。
お大師さんが出来た時には中央線は臨時列車が走るくらいでね、ものすごく賑わったそうなんです。
行列ができるくらいお参りに訪れたと。でも、段々と寂れてきたんですね。

 

『喜んでくれてると』

そうこうする間に家内が病気になりましてね。
で、「こりゃいかん」と、バーンと4店舗を売っちゃって、ここ(勝川)だけ残して。

 
処分される時にここ(勝川)だけ残されたというのは、何か理由があったんでしょうか?


 
こちらは家内がね、やっていましたんで。


 
奥様がやられていた勝川の店を残そうと。


 
そうそう。でもね、本当は茅ヶ崎の店舗を残したかったんですよ。
で、茅ヶ崎に行くにはここ(勝川)も売らなきゃいけなくて。でもなかなか売れなかった。

と言うのはね、やっぱりね、お大師さんが引っ張って下さったんかな、と思うんですよ。
今になってみますとね。
守山だとか尾張旭や猪子石、茅ヶ崎はね、簡単に売れちゃったんです。

で、家内は3ヶ月で亡くなりましたけども、多少とも家を売ったお金が出来たもんですから。
家内の菩提とお大師さんにお仕えしようと、本堂を建ててお大師さんの修復もしたりね、色々と
して来たわけです。


 

電気屋さんをやられている間にも高野山へ行かれたりとか、仏門への興味というのか、そういうものを
お持ちになられた一番のきっかけというのは奥様のご病気が・・・。

そう。家内が亡くなって、家内の菩提を弔うという事でね。
 

奥様は、ご主人がお坊さんになる事を知らないまま?
 

ええ。


 

それでは、空の上からご住職になられたご主人を見て喜ばれたのではないでしょうか?


 

まあ、喜んでくれているんじゃないかしらん、と思うんですけどね。
クソ坊主ではいかんですけど(笑)

それでもね、なにかしらね、喜んでくれてると思いますよ。

 

 


〈後編に続きます〉



【インタビュー/宮島一聡(糸美屋)  インタビュー・構成/松本純一(INMYLIFE potemkine) 
 撮影/山口 哲(写真のヤマグチ) 協力/松浦 望(弘法PCサロン)】

 

高野山真言宗持明院 
勝満山 崇彦寺 (しょうまんざん しゅうげんじ)

電話(0568)34-9978

愛知県春日井市若草通1−3


 

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